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過剰適応とは

扉絵

『過剰適応(かじょうてきおう)』という言葉を

聞いたことはありますか?

 

文字通り、なにかに「過剰」に「適応」しているイメージです。

 

自分自身についてのなにかを判断する際に

自分以外の価値観を過剰に優先し、

かつそれにほぼ無自覚に順応(適応)している状態

それが『過剰適応』です。

 

心理学で語られる『過剰適応』の多く

・勤め先の価値観を優先し過ぎる社会人について

・養育者(親など)の価値観を優先し過ぎる子どもについて

ですが、

これら以外の人間関係や社会との関わりにも見られるでしょう。

どこにでも起こり得るものだからです。

 

そんな心理状態になる理由とは、なんでしょうか?

例えば、

・疑いを持てないぐらい、あたかもその価値観が当然であるかのような環境にいる。

・その価値観に従わざるを得ないプレッシャーが心理的にある。

・本人が外の価値観に依存しやすい性格や性質の持ち主である。

…などです。

これらの要因はいろいろ絡むようです。

 

いくらか『過剰適応』のイメージはできますでしょうか?

理解の入り口

このブログをご覧になっている時点で

皆様、

すでに『過剰適応』という言葉に触れられているわけですが、

「過剰」という文字の意味からして

それを問題視する見方をお持ちになるかも知れません。

なにしろ「過剰」という強い言葉を使っているからです

 

ですが

「問題視する」という見方から入っていくと、

どこまで行っても『過剰適応』の理解には辿り着かないのです。

 

もし最初から『過剰適応』を問題視をする本をお持ちであるなら、

そっと閉じてください。

頭ごなしに『過剰適応』を問題視する人の意見は、

軽く聞き流してください。

臨床心理士の立場から、

そう言える理由を説明していきたいと思います。

 

『過剰適応』を問題視する見方では進められない理由、

それは

本人の心が外の価値観に対して「順応」しているからです。

たとえ客観的に見て「過剰」なほどだとしてもです。

 

例えば、ある子どもが、

いつも親の価値観に従うことを他のなによりも優先しているとします。

順応して、その価値観を心のより所にしているのです。

そして、

たとえ親があからさまに間違ったことを主張しても、

何も考えずにそれにならって主張したりするのだとします。

第三者から見れば

「『過剰適応』の状態だ」と言えるでしょう。

 

その『過剰適応』を一方的に批判した時、

子どもの心に何が生じると予想されますか?

 

ひとつは、抵抗です。

それまで親の価値観で生きてきたのなら、

それが否定されれば

心に批判に対する抵抗感が生じるのも当然です。

現状に気づいてもらいたいといった意図の批判でも、誤って、

『過剰適応』の心理状態をより強固にしてしまうかも知れません。

また、

親の主張が間違っていると認めたとして、

次に生じるのが心のよりどころを失う心細さ不安定さです。

場合によっては、よりどころを失う心の痛み、傷つきをも体験します。

『過剰適応』の傾向を持つ子は、

親の価値観が通用しなくなったなら、たいてい、

それに替わる次の依存先を探そうとするでしょう。

それではただの繰り返しです。

 

『過剰適応』は、

第三者にとっては、「問題」として見えてしまいがち、

気になってしまいがちなのかも知れません

周りは違和感を覚えているのに

本人は無自覚の状態。

そんなズレによっても

なおさら、そうなりがちなはずです。

 

ですが、

本人の幸せを考えるのなら

あたまごなしに批判してはならない

というのが理解していく上でポイントとなります。

主体性を考える

『過剰適応』の状態から抜け出して

その人なりの自由な意思を得ていくために

カギとなるのは

「本人が自分の心に触れること」です。

 

自分以外の価値観を最優先にしてきた人にとって、

自分の思いに触れ、それが認められる体験には

なじみが薄いかもしれません。

初めは戸惑いが生じるかも知れませんが、

その体験が積み重なって自分の価値観を自分の中に持つに至る

という流れが

自由な意思を得ていくイメージとして共有していただけると思います。

 

少しだけ専門用語を交えるとしましょう。

『過剰適応』と対になる用語として

『主体性(しゅたいせい)』を挙げたいと思います。

 

心理学で『主体性』とは、

「自己主張をする」や「行動的である」という意味ではありません。

もちろん現実の場面で自己主張したり、行動的であることによって

心理的な『主体性』が高まりやすいという傾向はあるでしょう。

ですが、

仮に他の人の方針に従って行動している時であっても、

理性的な判断が利いていたり、

気持ちの面で翻弄されずにいることができれば、

それは「『主体性』が保たれている」と言えるのです。

 

『主体性』は、実は誰もが持っています。

ただ、それが保たれる人がいる一方、低まりやすい人もいます。

 

どうすれば『主体性』を保てるようになるのか。

ここはくり返しになりますが、

自分自身の思いに触れて、それが他の誰かから認められる、

そうした体験を積み重えていくことが

外の価値観に疑問を持つ上での心の基盤になっていくと考えられます。

とても地道です。

回り道にも見えますが、それが実は最短距離なのかも知れません。

 

すでに外の価値観に疑問を持てる心の基盤が整った状態の人は、

その『主体性』に立って、さらに体験を重ねて、

自分の価値観を確かめていく段階に進んでいくのです。

モラトリアムとは

アメリカで活動した心理学者で

エリク・エリクソン(1902-1994)という人がいました。

 

彼は、青年期と呼べる年齢にいながら

将来の進路がまだ決まっていない時期を説明するのに、

『モラトリアム』という言葉を使いました。

 

「まだ決まっていない」というのは

得てしてネガティブに見られがちですが、

あえて、

そこにポジティブな意味もあるのだと主張したのです。

 

その回り道かのような期間に意味があるという考え方です。

 

決して将来の進路が早く決まった人が良いとか悪いとか

言っているわけではありません。

そうではなく、

あくまで決まっていない状態の人について述べています。

はたから見てなにもしていないかのような時期にも

心の成長にとっての価値を見出すことができるのだと主張したのです。

 

周囲の環境が変わり、それとともに価値観が変わる際に

ワン・クッションとなる時期があると良い、というのは

一理あると思います。

 

『過剰適応』にもそれが当てはまります。

 

ここでのキーワードは「時間」です。

「期間」と言ってもいいぐらい、長めの「時間」

『モラトリアム』という発想は、

無駄に見える時間でも、

実は心にとって無駄ではないということを教えてくれます。

エリクソンは、そういう時期があっても良いと唱えたのです。

 

『過剰適応』が解けるのには「時間」が掛かります。

『主体性』を保ちつつ新しい価値観に順応していくにも「時間」が掛かります。

『主体性』を保つ上で心はいくらかプレッシャーを感じたりもします。

特に『過剰適応』で生きてきたのだとしたら

『主体性』を持つことに不慣れで、

重く感じたり、精神的に疲れたり、怖いと感じる人もいるはずです。

この「『主体性』を持つのが怖い」という感覚は想像できますでしょうか?

ワン・クッション、

心には、変化に際して充分な「時間」をかけるべき時もあるのです。

 

ただ、「時間」をかけるべき時があるからといって、

私は『モラトリアム』の考え方を手放しに肯定はしません。

特に『過剰適応』の状態であるなら、

『モラトリアム』の質がどうか、その時間をどのように過ごすのか、

目に見えにくいそれらが重要になると考えるからです。

 

『モラトリアム』の質とは。

理想で言うのなら、

抵抗も、心細さも、不安定さも、傷つきも、

いずれも強過ぎることなく過ごせるのが、

心にとって望ましいでしょう。

そして、

社会の中で『主体性』を作り上げていく充分な「時間」が与えられたり、

その猶予が必要だと理解してくれる、よき理解者に恵まれるかどうか。

また、大小の傷つきを受けては癒すといった機会があるかどうか。

迷うことがありのままに許されるかどうか。

現実には全てが叶うと限りませんが

それらの確保を検討してみたいところです。

深刻な過剰適応の場合

急に話は変わりますが、

とあるテレビ番組で次のようなエピソードを観ました。

犯罪集団に属していた少年が

更生していく過程で、

いかに無自覚に「反社会的な価値観に染まりきっていたのか」

に気づいて自分自身で驚いた、と語ります。

犯罪を犯さない生活に内心で憧れつつも、

それは「別世界の物語のように思っていた」というのです。 

 

そのような話があるぐらい、

周囲の価値観に順応している本人には

『過剰適応』な状態が当たり前であり

気づくことさえ難しいのでしょう。

 

この場合の何が深刻かと言うと、犯罪行為が法律に触れている点です。

周りの価値観への「順応」によって法に触れているという問題が

本人には違和感が無いため、

『過剰適応』の状態が浮かび上がって来た時、すでに

社会的な立場として

まるで「待った無し」のような差し迫った状況になっていることがあるのです

 

早期に本人を巻き込まれている現実から切り離す必要性があり、

「『主体性』を保つとか『モラトリアム』の質だとか

悠長なことは言っていられない」となる場合があります。

 

深刻な程度の『過剰適応』は非行だけではなく、

会社内や家庭内などでもありますし、

例えば「洗脳」や「依存」という言葉を

連想した方もいらっしゃるでしょう。

過剰適応と心理カウンセリング

ここに書いてきたように、

『過剰適応』とひとくちに言っても、

心理状態という面で、

もしくは

生きている状況という面で、

程度に幅や違いがあります。

 

「自分は『過剰適応』で生きてきたかも知れない」

 

そう思われる方は、

今後の変化に希望をもって、

どんな思いでいるのかを心理カウンセリングで

語ってみてはいかがでしょうか。

 

頼ってきた価値観を手放すことに「怖い」と感じたり、

『主体性』を保つことに「しんどい」と感じるかも知れません。

変化には「時間」も掛かることでしょう。

 

お気持ちやご事情をくみつつ、

心理カウンセラーは、

ご自身の心に触れる取り組みをサポートいたします。

※ 当ブログで記す 「心理カウンセリング」 とは

 川越こころサポート室が提供するものを想定しております。

 他機関の専門性を保証するものではないことをご了承ください。    

鹿野 豪

川越こころサポート室のロゴ

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