
歴史的事実。
この言葉を聞くと、
「過去に実際にあったこと」と考えますよね。
今回のブログは
心にも関係している
「事実」という概念について
深く掘り下げてみたいと思います。
歴史に詳しくないという方も
しばしお付き合いください。
関ヶ原の戦いはあったのか
関ヶ原の戦いがあった。
歴史の教科書にはそんな風に書いてあります。
当時はどうだったでしょう?
例えば、
とある東軍の武将から見た戦(いくさ)と、
とある西軍の足軽兵から見た戦が、
同じものかと言えば、同じではないはずです。
同じ関ケ原の戦いのはずが、全然違うように言うはずです。
そもそも「1600年に天下分け目の関ケ原の戦いがあった」というのは
のちの人が意味づけてそう言っているわけで、
当時リアルにその場で集まった人たちにとっては
「え?別にそんな感じでもないんだけど」というのが事実なのでしょう。
「西暦1600年」と言われても意味が分からないですしね。
そう考えると
「過去に実際にあった歴史的事実」というのは
現代のこの時点でそうとらえているに過ぎない
とも言えるのです。
事実はひとつではない
『社会構成主義』や『相対主義』という考え方では、
事実は、ひとつではなく、
主観や文化・時代の中で見えているものとみなされます。
心について考える心理学も
『社会構成主義』や『相対主義』と密接な関係にあります。
ひとつの事柄であっても、
人によって・文脈によって、異なる事実となるのです。
事実をどうとらえるか
多くの人にとってすぐ腑に落ちる事実なのか、
込み入っていて本人にしか分からない事実なのか、
そういった違いはあるでしょう。
パッと確認できるシンプルな事実もあれば、
まとまりある物語としての事実もあります。
「関ケ原の戦い」はサイズとしては大きめですね。
いくら裏付けがあったとしても、
「関ケ原の戦いとは、こういうものだったのだ」、
そんな主張だと一面的・一方的になってしまい
空回りするのは想像に難くありません。
代わりに
「関ケ原の戦いには、こういう面(・見方・解釈・とらえ方)もある」、
「関ケ原の戦いの、こういうところは描いておきたい」、
とするなら、歴史的事実としても成立するでしょう。
これは書き手の姿勢でもあるし、
読み手の受けとめ方としても当てはまります。
事実は常に不確かであり、過信してはいけないのです。
事実と心
ここでは
「事実は、不確かなものだから、しょせん取るに足らない」などと
事実を軽んじたいわけではありません。
その逆で、
意味をひとつにしぼらない姿勢こそ
事実の本質にそっていて、その意味を確かなものにする、
そのように考えているのです。
そうとらえてみましょう。
・ひとの言っている話は、その人にとっての事実。
・昨日と今日で変わるのは、どちらもその時の事実。
・同じ事柄でも、いろんな事実がある。
これらに対応して、心は動いています。
いろんな事実とつきあう感覚でいくと、
決めつけやお仕着せではなく、
相手にとっての事実・自分にとっての事実を
分けて、かつ共存していけるでしょう。
事実はひとつではないのです。
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